私のお父さん
小学校の作文のタイトルみたいですが
私のお父さんについて綴ってみようと思います
私は父・母・姉・私の4人家族で
私たちが幼い時に
母が病気になってしまったからか
昔にしてはめずらしいイクメンでした
幼い私たち姉妹を連れて オムツを持って
会社のレクレーションに連れて行ってくれたり
休日は私たちが喜ぶからとドーナツを揚げてくれたり
外でも バトミントンなどして遊んでくれていました
川でテントを張ってお泊りも毎年の様にしていました
それは鮎釣りが思う存分出来るからかな?
お父さんは本当に鮎釣りが大好きでした
私たちが大きくなるにつれて
女3人の弾丸トークに
ついていけず 家庭ではわりと無口な方でしたが
孫が生まれてからは とっても
かわいがってくれました
そんなお父さんの父 おじいちゃんは92歳まで
ほとんど病気にもならず元気で過ごし
少しずつ体力が衰え亡くなったので
父も長生き家系だと勝手に思いこみ
同居している私が将来
介護してあげようか
なんてどっかで思っていたのですが
昨年の年明け頃からずっと変な咳をしており
会社の健康診断でやっぱり
再検査の通知が来て 検査の結果
『小細胞肺がん ステージ4』
でした。
小細胞肺がんとは進行の早い癌で
既に 身体中 骨にまで転移をしていて
手術は出来る状態ではなく
ステージ4 俗に言う 末期 でした。
もう 結果が出る前には全身に痛みが出ていて
高熱もあり
はって動いている状態なのに
それでも仕事に行こうとする父でしたので
緊急 入院になり
すぐに検査の結果報告 余命宣告 今後の治療方針の
話しをするのでご家族の方は…
という呼び出しが かかりました。
レッスンが始まる15分前に私にも連絡が来て
皆さん 一度教室に来て頂いたのに
事情を説明して帰って頂きました
本当に失礼なことでしたが
みなさん温かい言葉まで かけて下さったことを
本当に 嬉しく思いました
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それからお父さんの闘病生活が始まり
最初はショックで 涙ばかりでしたが
みんなが日常通りで元気な姿を見せていくことにして
たまたま 家族がみんな近くにいたので
不安なことは お父さんのいない時に
言葉に出して 聞きあい 励ましあって
過ごしていきました!
小細胞肺がんは 進行が速いから
抗がん剤も良く効く人が多いということで
すぐに抗がん剤治療を始めました。
ドラマで見る様な壮絶な副作用を
誰もが覚悟していましたが
一度も嘔吐はありませんでした。
身体はだるくて 眠るような日々が数日続きますが
今までの様な 痛みや はって動くような姿はなく
思った以上に元気でビックリでした
抗がん剤と抗がん剤の間の
1番調子の良い時を狙って
隣県程度の家族旅行などにも行きました
本当に みんなが一丸となり
改めて 家族の絆が深まった様に思います
ただ 抗がん剤の効きは良くなく
すぐに新しい抗がん剤に変わり
時に、肺炎になりかけ 危なかったり
肺の腫瘍が大きくなり 放射線をあてたり
放射線の副作用で 食事が喉を通らなくなったり
本当に一喜一憂の日々でした。
今年の年明けは 食事が出来ない状態だったので
病室でみんなで新年の朝を過ごしました
たまたま 皆さん退院されていて 個室状態の上に
初日の出まで みんなで見る事が出来ました
その後 食事もとれるようになり
調子が良い時は
庭をお手入れしてくれて
そんなに頑張らんでも良いのに
というぐらい
溝のお手入れをしてくれて
このゴールデンウィークでは
屋根までつけだしました
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もう誰が止めても 聞いてくれないので
好きな様にしてもらっていました
そんな 庭仕事をしている間は
たっぷりお外に出してもらえた
うさぎのちょこ君は
誰よりもお父さんが退院している期間を
喜んでくれてたかな
この6月の中旬には わざわざ島根まで行って
1日中 鮎釣りをした日もありました
↑最初と同じのですけどね
年券を買っていて まだまだ行くつもり
だったのでしょうが
これが最後の鮎釣りになってしまいました。
もう 小細胞肺がんに効く抗がん剤は
すべて使い それ以外の抗がん剤を使っていた状態で
それでも癌は大きくなっていき
転移していき そこでも進行していき
とうとう膵臓に転移した癌が
急性膵炎の手前まで悪さをしていて
急遽 内視鏡手術になりました。
炎症もあり あまり例がなく
内視鏡手術している間に
亡くなってもおかしくない状態です
と今日言われ
明日 命がかかった内視鏡手術
という日もありました。
みんなが希望を信じつつも
最期も覚悟して
遺言的なことも聞きました。
担当の先生曰く 奇跡的に成功しました
もう次は 出来ないと思って下さい
との ことで 見事膵臓に管を通して
病室に戻ってきてくれました
本当に嬉しかったです
ですが、それから
身体の電解質のバランスが崩れ
意識がもうろうとしたり
毎日 日替わりで 色々と
命取りになりそうな状態になっていました。
抗がん剤を使うことで免疫が下がり
膵臓の様にいっきに悪くなったりするので
抗がん剤等の治療を終了しました。
この時 まだ お父さんは
治療をしていくつもり
言葉には出していなかったけど
色々と思うことはあったと思います。
やっぱり家に戻りたいお父さんの気持ちを組んで
7月の中旬からは
退院して在宅看護をしました。
退院した日には
毎年咲くようにと
お父さんが深く 深く植えた
ゆりの花が見事に咲き
お父さんの帰りを待っていたようでした。
孫の中でも1番大きいゆめちゃんは
じいちゃんの痛みを少しでも和らげてあげようと
必至に頑張っていました
在宅看護専門の看護師さん
がん専門の相談員さん
先生方の 連携は強く
安心して 在宅看護ができました
私のお知り合いの看護師さんも
とても心強い存在でした
だけど 痛みが強く また入院になり
数日 入院しており
まだ帰れる状態ではない時でしたが
何かを感じとったかの様な
お父さんの強い思いを先生が組んでくれて
急遽 退院しました。
その翌日 今まで見たこともない痛み様で
痛み止めもほとんど効かず
とても父から離れられる状態ではなく
言葉も発することも出来ない状態で
結局 眠った様に痛みを感じない状態にしてもらいました。
そうすることで やっと
痛みを感じずに 眠れるようになりました。
そして 日付が変わった頃
呼吸が急に変わり
呼吸が止まり
けど まだ脈はうっていて
1分ぐらいで 脈もうたなくなりました。
はじめて 息をひきとる という状態を
目のあたりにしました。
悲しいより 今まで良く頑張ったね 辛かったね
大切に育ててくれて ありがとう
という いろんな感情が入り混じった気持ちでいっぱいでした。
最期は お母さん・娘2人に婿さんまで
みんなが看取って声かけられて
きっと幸せだったんじゃないかな
おじいちゃんが長生きだったからか
どこかで 人なんか そう簡単には死なない
心臓が止まることなんて そうそうあるもんじゃない
なんて 正直 思っていましたが
初めて 家族を亡くして
息をひきとる 姿を見て
また もう1人 身近な方が 亡くなら
れたこともあって
本当に命の尊さを感じた7月でした。
覚悟はあったけど
一緒に住んでいた家族が亡くなるというのは
ちょっとしたことを思い出すと
淋しくなるものですね。
だけど 私は 温かな家族に恵まれて
本当に幸せでした!
お父さんには感謝の気持ちでいっぱいです
色々と相談に乗ってくれた皆さん
子ども達をフォローしてくれたお友達
本当に 初めての闘病生活でしたが
心強く 安心して向かい合えました!
本当にありがとうございます
そして 入院してても毎日付き添っていたお母さん
献身的に看病していて
お父さんも 幸せだったと思うよ
お父さんが最後まで望んだことは
あゆみとかおりが仲良くしてくれたら それだけでいい
という言葉だったので
姉と仲良く お母さんを支えながら
過ごしていけれたらと思います。
なかなか いろんな事にやる気がでない日々でしたが
少しずつ 調子を取り戻してきたところで
私なりにこの1年2ヶ月をまとめてみました
これからも私は私らしく
大好きな仕事をしながら
お父さんに大切に育ててもらった様に
子ども達も私の子で良かったと
思ってもらえるママになりたいです
そして、またお盆明けに
私の元気の源
みんなのかわいい笑顔を見れることを
楽しみにしていますね
長文にお付き合い下さり
ありがとうございました